酒と狩りの日々

楽しく生活するためのマテリアル

ゾンビ・ディストーション

 先日、会社を辞めた。理由は、以前よりうつ病にて休職しており、その期間が満了したためだ。

その頃から、死がちらつくようになった。

 

 まず大前提だが、別に死にたくはない。では一体なんなのか。

海や、電車、道路にふと吸い込まれそうになることがある。ただ何も考えずに散歩しているときや、目的地があって移動しているときなど、タイミングを問わずだ。自宅で包丁を握る想像に取りつかれることすらある。死は、旧い知り合いのようにいつだって突然現れる。まったく迷惑なやつだ。

ぼくは、自殺するにしてもほかの誰かがやっていたみたいに死期を定めたりなどできない。だから、時折現れる死が差し出してくるその手を取ってもいいかな、とも思う。ただ、やんわりと、漫然とした不安に常に満たされているだけで死にたいわけではないのだが、この先生き抜いていく算段があるわけでもない。日常の中で見え隠れする死に無関心でいられない。死は、現実感をもって迫ってきている。

 

 このコロナ禍のただなか、ひとと会うことや自由に買い物に行くことすらままならないまま半年近くが経過した(我が家には重病人がいるため、感染対策を徹底した結果だ)。気になる人とデートをすることもないし、気心知れた友人と杯を交わすこともない。一人でカラオケに行くことすらなく、必要最低限以上の外出といえば、先日やっと数か月ぶりにジムを再開したくらいだ。こういったことがもともと仕事により崩れていた己の精神をさらに蝕んでいるのだろう。ツイッターなどでオフの様子が流れてくるときも、正直羨ましくてしかたない。嫉妬に狂った挙句、怒りを吐露することさえあった。

再就職もこの世情のもとでは一筋縄ではいかないだろう。そもそも、いつこの状況が収束するのかもわからない。そういったことも己の未来に影を差し込んだ結果心は日に日に継ぎ接ぎだらけになり『死んでいた方がまだマシだった』と言えなくもない、呪いを吐き続けるだけの見るも無惨な肉塊を生み出した。

 

他人が憎い。友人が憎い。いろいろなことが憂鬱で仕方ない。胃が強く痛んで、眩暈がして吐きそうだ。

 

明日のことなど考えたくない。誰かのことを想いたくない。誰かに許されたい。自らの死なんて考えたくない。頭の中はからっぽか、でなければ愉快なことだけを考えていたい。なりたい自分などない。

朝が訪れることを恐れて眠れない日がある。大切に思う人たちがいる。誰のことも許せない。死ぬ手段、瞬間のことばかり考えている。脳内は思考の奔流に呑まれ、不快な妄想が駆け巡る。こんな怪物になりたくなかった。

 

 

 死は、ぼくを退治するためにやってきているのかもしれない。そう思えばなかなか悪くないものだ。いつの世だって、勧善懲悪の物語は必要とされているのだから。もっともこんな話は語るに及ばない、B級映画のほうが面白いくらいのものなのだろうが。